人口流出について

2016/1/29

三重県議会議員になって3年目の終わり頃のことです。みなさんの声を聞きながら様々な項目に取り組んできて、1期目にしては、まずまずの成果を上げられたかな、特に獣害対策は県政としてはかなり進めることができたなあ、と思っていました。しかし何か違うな、とも感じていました。

たとえば、今すぐに議員を辞めることになったとしたら、私はこれで十分に度会郡に対して恩返しができた、と思って辞められるだろうか? たとえば、度会郡がどういう姿になったときに、ああ政治家を志して良かったな、これで死んでも悔いはない、と思えるだろうか? そんな自問自答を繰り返していました。

その結果たどりついたのが、「『若者が住める地域にすること』こそ私の使命」だ、という答えです。若者が当たり前に働き、子どもの声がする。今はそれがなくなってきているから、年配のみなさんも、本当にこのままでいいのか、と不安になってきている。私が歳をとったとき、若者が住める度会郡になっていたならば、笑って人生を終えられるように思う。そう考えたのです。よし、これに取り組むぞ! と心に決めながら、1期目の最終年度を迎えたのでした。

2010年6月16日 本会議・一般質問

一般質問のチャンスは1年に1度です。いよいよ1期目最後の一般質問となったのでした。「奥伊勢・南伊勢の地域格差」という題名で質問しました。内容は、東紀州も大変だけど、実は奥伊勢・南伊勢は三重県の中でもかなり大変なのです、と。人口減少率も高齢化率も財政力指数も、悪い方から1位と2位が、南伊勢町と大紀町なのです。東紀州には『東紀州対策局』という部署があって対策をしてくれているけれども、度会郡は東紀州じゃないので、何の対策もありません。数字から明らかなように対策が必要です、対策をしてください、光を当ててください、と迫ったのでした。

2010年10月26日 予算決算常任委員会・当初予算編成に向けての基本的な考え方

2010年12月7日 予算決算常任委員会・当初予算要求状況

三重県が行った改革の良い部分なのですが、各政策の効果がわかるように指標という、目標とする数字がおいてあります。この数字の達成状況をみることで、どれくらい政策が進んだかわかるようになっています。そして、今はこういう課題があるから、こういうように解決したい、そのためにこういう事業をします、ということも書いてあるのです。

ところがよく見ると、過疎対策の記述がおかしいように思いました。そこで手を挙げて発言したのです。「過疎という問題がある」、そして「過疎を止める」とハッキリ書いてください、と。そのときの指標には何がおいてあったかというと、交流人口という、簡単に言うと観光客の数が置いてあったのです。しかしそれは過疎をまっすぐに表している数字ではないので、もっと過疎対策の効果があったのかどうかがわかる、直接的な数字をおいてください、と質問しました。

この質問に対する答弁が、まったく何だかよくわからない、のらりくらりとしたものだったのです。この質問の後から、非公式ではありますが、県の担当者たちと何度も何時間も議論をしていくことになります。

2010年10月から2月頃 担当者たちとの議論

何度も何時間も議論をしても、どこまでも噛み合わないのです。たとえば、0歳で生まれた子どもが30歳になったときに何%残っているか、という数字は直接的に過疎を表す数字だと思いますが、これを指標にしてはどうですか? などと具体的に提案しても、よくわからない理由で、できないと言うのです。こんな議論を続けていると、さすがに、相当、ハラワタが煮えくり返る場面もありました。そうこうしているうちに、ある疑問が浮かんできました。それは、「ひょっとして県は、過疎を止めようとしていないんじゃないのか……?」というものでした。

2010年12月末 リーフレットの作成

いよいよ4月に選挙を控えたこともあり、後援会に入会してもらうためのリーフレットを作りました。

県は逃げている。過疎を止めるということが困難な大事業だから。もし僕まで逃げたら、この地域はどうなる。僕まで、あきらめてはいけない。この問題から逃げるのなら、この地域から選んでもらう資格はない。そう思いながら作りました。

キャッチフレーズを『いつまでも住める地域に』と決めて、なかの文章には、私の決意として以下のように書きました。

三重県内で一番人口減少が大きいのは南伊勢町です。二番目が大紀町です。度会郡を代表する県議会議員であれば、この過疎の問題から逃げることは許されません。4年間つとめさせて頂く中で、私がこの地域から選ばれていることの意味とは、私が県議会議員として果たすべき使命とは、それは「いつまでも住める地域にする」ことだと感じました。(中略)ところが今の三重県の政策は、そのようになっていないのが現状です。私は、逃げずに過疎の本質へと切り込むように主張し続けます。今こそ、従来の過疎対策からの転換が必要なのだと信じて取り組んで参ります。

そして重要な要素として、「まず働く場(それも一次産業の復権)」、「子育て環境」、「医療と介護」の3つを挙げました。

2011年2月22日 関連質問

関連質問は10分間しかありません。まっすぐ疑問をぶつけました。「県の過疎対策は、過疎が起こったからそれに対処して手当てをするものなのか、それとも過疎そのものを止めるためのものなのですか?」と。

まず担当理事、次に政策部長、最後の望みをかけて、野呂知事(当時)と答弁を求めていきましたが、出されたのは、「過疎対策とは、起こってしまった過疎という現象によって生じている課題を解決するための対策であって、過疎を止めるための対策ではない」という答えでした。

これではっきりしたのです。県は過疎を止めようとしていない。だからいくら議論をしても、どこかおかしいし、噛み合わなかったのです。

2011年2月末頃 担当者たちへ、リーフレットを渡す

いくら議論をしても噛み合わない。その理由がわかりました。根本が違ったのです。担当者たちに、リーフレットを渡して言いました。

私は逃げずに、この選挙で過疎の問題を掲げました。このリーフレットを度会郡中に配っています。これで、私が再び議場に戻って来るようなことがあったなら、私の話を聞いてもらわなければ困ります、と。

2011年3月3日 予算決算常任委員会 総括質疑

まぎれもなく一期目最後の質問であり、私は自らの全存在をかけるほどの気合で臨みました。会派から頂いた時間は20分間。

質問:過疎対策は過疎そのものを止めるためのものではない、という県の見解はまったく残念ですが、県として、過疎の本質である若者の流出を止める気はありますか、ありませんか。

答弁(理事):雇用を増やして、若者がその地域に住み続けられるようにしたい。

質問:流出を止める気はある、という答弁でした。そうであるならば、若者の流出を止めるという大目的のために、あらゆる事業を組み合わせていくという、総合対策が必要だと考えますが、いかがですか。

答弁(理事):まず市や町からの提案が重要であるが、県は総合行政として過疎対策を行っていける仕組みを作る必要があり、それが課題。期待に応えられるよう頑張りたい。

やっと少し議論がかみ合いました。わずかに涙が鼻に入ったらしく、三重テレビで生中継なのに最後の方で、鼻がぐしゅぐしゅ言いました。

この頃くらいから少しずつわかってきたことがあります。それは、行政がいう「過疎対策」とは、国の過疎法が定めた定義に従っているのです。この法律は古くて、私が過疎と定義しているような話は書いていません。職員はこの法律に従って仕事をしているのであり、法律を守っているだけなのです。それが地域に住む実感とはかけ離れていっているのだ、と。

2011年3月から4月 鈴木英敬 新知事誕生

私は集会などで、これまでの経緯を説明し、「お年寄りがお年を召して亡くなるのは寂しいことですが、この人口の減り方は過疎ではありません。私の考える過疎とは、この地域が大好きで、ここに住み続けたい人が住み続けられない悲劇! これこそが過疎だと考えます」、「どうか過疎の本質に切り込ませてください」と話し続けました。

みなさんからは、「過疎の話は30年前の議論ではないのか」とか「これまで多くの大政治家が過疎対策を言ってきたができなかった。お前のような若造に、それができるのか」というようなご意見も頂きました。それでも一生懸命、以下のように説明を続けたのでした。

これまで県は、過疎を止めようとはしてこなかったのです。県には総合計画というものがあります。これから、その総合計画に過疎の本質に対策をすると書かせて、指標という目標の数字をおかせることができれば、優秀な県職員が、初めて過疎を止めるための仕事をし始めるのです。この総合計画に書いていないことは、県はしません。これまでは、ちゃんと書いてなかったのです。書かせることで、それでやっとスタートラインに立てるのです。きっと何かが変わります、と。

選挙初日、鈴木英敬候補(当時)が度会郡に駆け付けて下さり、ともに並んで街頭演説をしました。

私は、過疎の本質に切り込みたい。鈴木英敬候補は政策集で南部地域活性化計画を作ると書いてくれている。私が過疎の本質に切り込むことを許してくださるのならば、鈴木英敬候補をみなさんの力で知事にしてほしい、と。

2011年6月3日 全員協議会 新しい県政ビジョン

2011年6月10日 本会議・一般質問

鈴木県政になり、いよいよ新知事の考え方を聞くこととなったわけです。画期的な答弁を頂きました。

人口の自然減と社会減は違う。若い方々がふるさとに定着し希望を持って暮らしていけるようにすることが過疎対策の重要な課題。若者をはじめとした人口流出の抑制に努める。最大のポイントは地元に雇用を作ることだと考えている。

以上のようにおっしゃいました。自然減というのは、お年寄りがお年を召して亡くなるような人口の減り方のことです。社会減というのは、引っ越して行ってしまうというような人口の減り方のことです。知事は、私のいう過疎の定義を認めてくれたのです。そして若者の流出を止める、そのために地元に仕事を作る、と言ってくれたのです。

2011年9月 みえ県民ビジョン(中間案)

みえ県民力ビジョン、というのは総合計画のことです。鈴木県政では、こういう呼び名になりました。

問題は内容です。ページの最初のほうの理念や考え方だけは変っているものの、実際のそれぞれの政策に関する記述は、野呂県政のものとほとんど同じ。過疎対策についても相変わらず。私の主張してきたようなことは1文字も書かれていません。対応する施策の、主指標という目標数字は、「地域の活動などに参加している住民の割合」というまったく関係のないもの。

2011年10月初旬 担当者たちとの意見交換

これは一体どうしたことか、と担当職員の方々から話を聞きました。すると、厳しい財政の中だけれども、『南部地域活性化プログラム』というもので予算を集中して重点的にやっていきます、と。

従来型の過疎対策は法律に基づいて国が設定したもの。それはこのまま続けていきます、と。三重県の南部が疲弊している問題は、従来の法律による“過疎”よりも新しい考え方で、三重県独自でやっていきます。それが『南部地域活性化プログラム』です。5月、6月に若手職員を集めて議論した結果、若者の定住促進をするのだ、そのためには働く場だ、ということになったのだという返事でした。

それは素晴らしい、とお礼を言いました。しかし本体ビジョンに何にも書いていないのに、いきなり重点プログラムだけが独立して浮いているのはおかしい。本体ビジョンにも明記してほしいと要望しました。また、指標についても念を押しました。

2011年10月18日 全員協議会 議員間協議

みえ県民力ビジョン(中間案)への議会としての意見を取りまとめる最終段階を迎えていました。しかしここまで、私が過疎対策について発言する機会がないままに、議会の全体の意見として知事へ提出されようとしていました。

そこで、全議員を前にして恐縮ではありましたが、あえて挙手し、ここまで1年以上議論してきて色々ご答弁も頂いているにもかかわらず、まったく反映されていない。是非とも本体ビジョンに若者の流出を止めるんだ、というようなことを明記してほしいのです、と求めました。そして山本教和議長および、中森博文政策総務常任委員長からそれぞれ前向きな返答を頂いたのでした。

2011年10月25日 予算決算常任委員会 当初予算編成に向けての基本的な考え方

知事から、『南部地域活性化プログラム』を含む、選択・集中プログラムが示されました。これらは厳しい財政状況のなかでも特に解決しなければならない懸案へ予算を集中的に投入しよう、というものです。余談になりますが、これらのなかに『暮らしと産業を守る獣害対策プロジェクト』があります。私が初当選直後に取り組んだときには、県政の課題にもなっていなかった獣害対策が、重点プロジェクトになったのです。隔世の感があり、感慨深いものがあります。

『南部地域活性化プログラム』は、指標など細かいところは、何も決まっていないとの説明でした。

また、当初予算の説明のなかで、過疎対策の項目が、今までよりだいぶ充実した書きぶりで、あっ、これはビジョンの方も部内で良い方向に転換したのではないかな、と感じました。

2011年11月22日 全員協議会 みえ県民力ビジョン(最終案)

いよいよビジョンの最終案が示されました。

これまで過疎対策は、地域づくり施策のなかのオマケのように書かれていたのです。それが今回の本体ビジョンでは、『南部地域の活性化』という1つの施策として独立しました。内容には、「南部地域において、働く場の確保が図られ、定住が促進されているとともに、生まれ育った地域に住み続けていたいというあらゆる世代の地域住民の思いがかなう地域社会が創られている」姿を目指します、ってハッキリ書いてくれてあります。指標という目標とする数字は、生産年齢人口(15歳から64歳までの人口)の減少率を今より悪化させない、現状を維持する、と書いてあります。

『南部地域活性化プログラム』には、「若者に焦点をあてながら、働く場の確保、定住の促進を進めるとともに、あらゆる世代がいきいきと住み続けていけるための戦略的な取組を進めます」と明記してくれてあります。指標には、若者の定住率。25歳から34歳までの人口が20年前の5歳から14歳までの人口と比べてどれだけ減ったか。この比率を5年後にも現状維持にするのが目標だ、と書いてあります。

まずは現状維持でも、逃げずに数字をおいて取り組むということになったのです。

この1年半余り、私の主張してきたことについては、すべて盛り込まれたのでした。

同時に県庁の組織改編も発表されました。『東紀州対策局』が廃止され、『南部地域活性化局』になりました。これまでの、『東紀州対策局』では度会郡は入りませんでした。

一番人口が減っているのに、特別な対策はなされてこなかったのです。それが『南部地域活性化局』となり、ついにこの度会郡も対策の範囲に入ります。そして、この『南部地域活性化局』が『南部地域活性化プログラム』を行うこととなりました。

2011年12月1日 本会議・関連質問

主張を盛り込んで頂いたことに御礼申し上げました。そして、『南部地域活性化プログラム』は市町の取り組みを支援する、ということだが、県の職員も現場に入って、役場の職員や地域のみなさんと一緒に知恵をしぼって、汗を流す体制を作ってください、とお願いしたのでした。

 

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